MOM VOICE

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マンション防災の実態【特別編】
「3.11」に、学ぶ。

2019.02.26

東日本大震災で被災された宮城交通株式会社の方に、
体験をお聞きしました。

INTERVIEW

東日本大震災で被災した宮城交通株式会社のお2人に
当時の様子を振り返っていただきました。

01
INTERVIEW
情報収集は
自分で街を歩いて。
まず、震災当日の様子をお聞きしました。
震災当日は、どこでどのように被災されたのでしょうか?
及川さん:震災時は本社におりまして、その後は近くの仙台北営業所で高速バス利用のお客様のご案内などをしていました。地震後にライフラインがストップしたのですが、災害本部である仙台北営業所に留置してあった貸切バスのテレビが映りましたので、そこで情報収集をしていました。携帯電話も不通でしたが、1時間後にたまたまつながり、妻から「無事で実家に帰っている」という連絡があり、安否を確認することができました。妻の実家近くに住んでいる職場の方に送ってもらえたそうです。私の方は、電気が止まっていたため、家に帰っても暗くて何もできないと思いその日は会社に泊まりました。  翌日、家が近い同僚2人と別の同僚の車に乗って、順に家を回って帰宅しました。「電気が止まっているだろうから、家の状況を確認したらまたみんなで集合して会社に戻ろう」という話をして、一度自宅に戻りました。
帰宅されたとき、お住まいはどのような様子でしたか?
及川さん:当時は8階建てマンションの5階に住んでいました。室内は食器、本などがすべて床に落ちてしまい、大変な状態でした。洗面室はドアが開かなくて中に入れませんでした。物置の荷物が飛び出てしまっていたようで、結局ドアを外して洗面室に入りました。家具も転倒対策を特にしていなかったので、レンジやテレビなどが倒れていました。その日はこぼれた料理などニオイが出そうなものだけさっと片付けて、ほかはそのままにして再び自宅を出ました。  その後同僚との待ち合わせ場所に向かったのですが、たまたま自宅近くの体育館が避難場所になっていたので、「会社に戻るよりも情報や物資があるかもしれない」と3人で避難所に行くことにしました。避難所に到着すると、すぐにバナナをもらいました。このとき私自身は防災備品を一切持っていなかったのですが、一緒にいた同僚の1人が日頃から防災備品を用意していたようで、非常食や手回し式ラジオを自宅から持ってきてくれました。ラジオは避難所で交代しながら回してニュースなどを聞いていたのですが、当時は情報を得る方法としてすごく助かりました。
つぎに、震災後の生活についてお聞きしました。
震災後、マンションでの生活で大変だったことはありますか?
及川さん:地震でエレベーターがストップしてしまったことです。1週間ほどでとりあえず動くようになりましたが、エレベーターが復旧するまでは階段を使って5階まで上り下りしていました。食料のほか、給水所で水を入れた3〜4Lのポリタンクを時々運ばなければならず大変でした。  それと、うちのマンションは震災から1カ月以上ガスが使えませんでした。お湯が使えず、お風呂には困りました。ガスが復旧したのは4月中旬でした。電話電気の復旧は翌日の深夜でしたが、水道の復旧は1週間かかりました。
食料の確保、ライフラインの復旧状況などの情報はどのように集めたのですか?
及川さん:食料は、妻が休みの日に店へ行ってくれました。どこの店が開店しているかがわからなかったので、周辺を歩いて探して、行列ができているところに並んだそうです。私たちはほとんどマンションの住人の方との付き合いがなくて、みなさんがどのようにしているか情報が入りにくかったこともあり、自分自身で街を歩いて情報を探すしかない状況でした。

 店などの情報を知りたくてマンションの掲示板を確認したのですが、情報はありませんでした。主に掲示板に貼られていたのは安否連絡のメモ。部屋番号と名前とどこの避難所にいるかなどが書かれた紙がいくつか貼ってありました。マンション全体で居住者の安否確認をすることはなかったので、みなさん個人で動かれていたようです。ほかには、うちのマンションは電気だけは翌日に復旧していたので、部屋番号とともに「電気使えるので、携帯の充電できます」と自宅を開放する案内の貼り紙もありました。
及川さん:やはり自分で街を歩いて情報を探すのは大変ですし、携帯電話も充電のことを考えるといつでも使える状況ではなかったので、マンションの掲示板などで近所のスーパーやガソリンスタンドの営業情報、給水所の場所などがわかると非常に助かっただろうなと思います。ガソリンがどこで手に入るかわからず、あちこちのスタンド前で開業を待つ長い列ができていましたから。
貴重なお話をありがとうございました。
02
INTERVIEW
救急車が来てくれる 状況じゃなかった。
まずは、震災当日の様子からお聞きしました。
震災当日は、どこでどのように被災されたのでしょうか?
丸山さん:地震のときは本社でバスのダイヤを作成していました。建物の年数が経っていて、実際に地震の影響で建物の一部がズレたり、割れたりしていて不安でした。揺れが収まったあと家族に安否確認のメールを送ったのですがなかなか返信がなく、安否確認ができたのは夜遅い時間になってからでした。  私は車通勤だったので、その日は勤務を終えてから車で家に帰りました。道路に段差ができていたり、信号さえ消えている状態でしたので、はやる気持ちを抑えて事故を起こさないように、いつも以上に慎重に運転するように心がけました。
帰宅されたとき、お住まいはどのような様子でしたか?
丸山さん:当時住んでいたのは10階建てマンションの最上階で、全部で30世帯くらいのマンションでした。引っ越してきてから1カ月も経っていないときだったので、近所に知り合いはいませんでした。自宅は、タンスを置いている部屋の家具が倒れて、ものがたくさん落ちました。大きな地震がくるという想像をしたことがなかったので、家具の転倒対策は全くしていませんでした。

 地震が起こったときに自宅にいた母に、当時の状況を聞いてみました。母はたまたま家具がないスペースにいたそうで、ケガはありませんでした。揺れが収まってから共用廊下に出て、他の方と集まって状況を確認しあったそうです。同じマンションに住む方がケガをされて、額からかなり出血していたため、母が自宅から救急箱を持ってきて応急処置をしたとも話していました。その後の対応はマンションのオーナーさんにお任せしたそうですが、救急車を呼びたくても来てもらえるような状況ではなかったそうです。
つぎに、震災後の生活についてお聞きしました。
震災後、マンションでの生活で大変だったことはありますか?
丸山さん:マンションが倒壊するのではないかと不安だった震災後の最初の数日は、駐車場で車中泊をしました。しかし、車の中でしたのでなかなか眠れませんでした。ほかにも車中泊をしている方がいましたが、2〜3日経つと少しずつ部屋に戻っていきました。車中泊をしている間も日中の明るい時間帯に部屋にものを取りに行っていましたが、数日してマンションの倒壊はなさそうだと思ったので、まわりの状況を見ながら室内の片付けをするために部屋に戻りました。 マンションで大変だったのは、階段の上り下りです。3月22日にエレベーターが復旧したのですが、それまで部屋への行き来は階段を使うしかありませんでした。10階だったので、ちょっとものを取りに行くだけでも辛かったです。階段は、かなり強い揺れが来たら手すりを越えてしまいそうで、普段はエレベーターしか使わないこともあり、不安だったのを覚えています。うちのマンションの階段はコンクリートの壁があって、その上に手すりがついているタイプでだったのでまだよかったですが、下が丸見えになる格子の手すりだったらもっと怖かったかもしれません。 マンションに限らずですが、ライフラインがストップしたことがやはり不便でした。うちのマンションは電気が3月17日頃、水道は3月28日頃に復旧、ガスは3月29日頃に復旧しました。水道が復旧するまでは給水所に水をもらいに行っていたので、マンションだと部屋まで運ぶだけでも大変でした。
食料の確保、ライフラインの復旧状況などの情報はどのように集めたのですか?
丸山さん:当時の状況を母に聞いたところ住人同士で情報交換をしていたそうで、買い物できる店や給水所の開設場所などを教えてもらったとのことです。あとは、買い物に行って店の行列に並んでいるときに、目の前に並んでいる人に情報を聞くこともあったそうです。  震災直後に必要な情報と、数日経ってから必要な情報は異なります。最初の頃は食料や水がどこで手に入るかという情報がほしいのですが、何日かすると今度はお風呂の情報が必要になってくる。部屋の片付けなどで汗をかきますし、やっぱりお風呂に入りたくなります。開いている公衆浴場の情報を聞きつけて、1時間並んで入ったこともありました。その後は部屋の片付けをして出たゴミをどこに捨てればいいかなどの情報が必要でした。
震災後の生活で、情報収集のほかにご近所同士で助け合うことはありましたか?
丸山さん:ご近所同士で物の貸し借りをすることがあり、「どこどこに給水所があるよ」という話をしていたときにバケツがないからどうしようと相談していたら、その場にいた方が貸してくれたそうです。
震災前と後で、ご近所付き合いに変化はありましたか?
及川さん:特に目に見えるような大きな変化はないですが、震災後にご近所さんとすれ違うときに「あのときは、どうもありがとう」と声をかけあうことがありました。マンション内には賃貸で住んでいる方もいるので、震災後は住人の入れ替わりが多いように思いました。  個人的には部屋の家具の転倒対策を行いました。以前は自分が住むエリアに大きな災害が来ることなんて想像すらしていなかったのですが、いつ何が起こるかわからないから今できる備えをしておこうと思うようになりました。
貴重なお話をありがとうございました。
03
INTERVIEW
震災当時や震災後の生活で
必要だったものや
防災備品について伺いました。
震災当時や震災後の生活で必要だったものや
防災備品について伺いました。
及川さん:避難所にいたときは、同僚が持ってきた手動ラジオで情報収集していました。1人で長時間回し続けるのは大変で、3人で交代して回していました。頻繁に使ったのは、携帯電話の充電器です。情報収集のためにいつもより携帯電話を使う頻度が増えてすぐに電池がなくなってしまったため、そのつど充電器を借りていました。他には、マスクも毎日使用していました。お湯が使えずに髭剃りがなかなかできなかったので、マスクで隠していたんです。女性も簡単な化粧のみの方が多かったので、みなさんマスクをしていました。
丸山さん:ラジオ、懐中電灯、カイロ、スリッパ、軍手、ポリタンク、カセットコンロ、マスク、救急箱、手回し式携帯充電器などを使いました。備品の多くは家にあったものです。置き場所は把握していたのですが、地震で室内に物が散乱してしまって探すのに手間取りました。携帯の充電は自宅にいるときは手回し式携帯充電器を使っていましたが、実際には気休め程度にしかなりませんでした。しかし偶然にもその日は会社に発電機があったので、それを使用しました。車で充電することもできましたが、ガソリンの入手が困難だったのであまり使いませんでした。家には多少の防災備品があったものの、正直全然足りませんでした。
及川さん:自分で自転車を所有していればよかったなと思います。地下鉄が使えなくなったときに、通勤はバスで遠回りしていたのでかなり時間がかかりましたし、営業している店を探すのにも自転車があったほうが便利だったと思います。仙台市内の方は徒歩と自転車で移動している方が多かったです。
丸山さん:私は会社にあった発電機を使えたことでだいぶ助かりました。一家に1台は無理でも、マンションの備品として発電機があれば便利なのではと思います。
震災後、お風呂や洗濯、トイレなどは
どのような状況だったのかお聞かせください
及川さん:ガスの復旧が遅かったので、毎日水で洗髪していました。一度、体も水洗いに挑戦しましたが、寒くて厳しかったです。幸いにもうちのマンションでは電気が早々に復旧したので、水に濡らしたタオルをレンジで温めて、体を拭いていました。ですから、タオルは毎日たくさん使いました。
丸山さん:私も髪は水で洗っていました。冬場は水だと冷たいので、できれば水なしで洗えるドライシャンプーを備えておくといいかもしれません。電気と水が復旧しないと洗濯機を回せませんから、洗濯物はたまる一方でした。給水所でもらった水で軽く洗う程度しかできません。トイレも同様に使用できず、お風呂の残り湯と給水所の水を使って流していました。
貴重なお話をありがとうございました。
今回のお話を聞いて学んだこと

備品がないこと、インフラがストップすること、情報がないこと、エレベーター停止などマンションならではの支障や停滞が発生すること、これらが重なることで、「大変さや不安」が増幅していたことがわかりました。

今回のお話をお聞きして、マンション内で災害時の不足や不便を補い合い、助け合うことができれば、大変さや不安をもっと少なく軽くすることができるのではないか、またそうしたことに対する備えがあることで、日頃の漠然とした不安を和らげることができるのではないかと感じました。 私たち名鉄都市開発は今後も「マンションに集まり住んで、備え、助け合う強み」を追求し、不安を和らげ、安心できるマンションでの暮らしをサポートしていきたいと思います。

今回お話を伺った
宮城交通株式会社について
ご紹介します。
名鉄グループの企業で、仙台市を中心とした一般路線バスや仙台高速バスセンター(仙台市)を起点に主要都市を結ぶ高速バスなどを運行しているバス会社。宮城県の仙台市外を中心にバス事業を展開するミヤコーバスをはじめ、自動車整備業、旅行業、自動車学校など各種事業を営む宮城交通グループの中核会社であり、「安全第一」を基本に地域社会の貢献に取り組んでいます。